心に咲く花 13回 椿

河上の つらつら椿 つらつらに
見れども飽かず 巨勢(こせ)の春野は― 春日蔵首老(かすがのくらびとおゆ)

【現代訳】
川辺に咲く椿をいくら見ても飽きることがないほど、巨勢野の早春は美しく、すばらしいものだなあ。

心に咲く花 2019年13回 椿


木へんに春と書く「椿」。
花の少ない時期の鮮やかな紅色は古来、どれほどの人々の心を潤し、励ましてきたことでしょう。

『万葉集』に九首の椿の歌があります。
掲出歌もその一首。
「河上の」は能登瀬川のことです。巨勢山は現在の奈良県御所市古瀬にある標高三百メートルほどの山です。上句で繰り返される「つらつら」がとてもリズミカルで早春の到来を喜ぶ作者の笑顔まで思い浮かぶようです。
『万葉集』には坂門人足(さかとのひとたり)の「巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ偲ばな 巨勢の春野を」もあり、掲出歌とよく似たこちらの歌も有名です。

『日本書紀』では景行天皇が用いた記録が残る椿。
悪鬼を退治する卯杖(うづえ)として天子にたてまつられ、装飾を施したものが今でも正倉院に保存されています。
伊豆大島をはじめ、全国に存在する椿の名所。五島列島(長崎県)の久賀島や山口県萩市の笠山には藪椿(ヤブツバキ)の原生林も残っています。

『源氏物語』に登場する椿餅は日本で最初の餅菓子だと言われています。

与謝野晶子は「きよらなる 横笛吹きし口びるのくれなゐに似る椿をひろふ」と詠み、現代歌人の馬場あき子にも「くれなゐを冬の力として堪へし寒椿みな花をはりたり」という歌があります。

江戸時代には歌川広重が描き、漆の工芸品や九谷焼、伊万里焼などの陶器にも登場した椿。
椿は大地に咲く花であるのと同時に、人々の心にも、さらには芸術文化にも大きく咲く花でした。
華やかなのに、どこかなつかしさやぬくもりも感じられるのは祖母の鏡台などにあった椿油を思い出すからでしょうか。

千年にわたって詠み継がれてきた椿の魅力は平成から新たな世に変わっても、人々の心に受け継がれていくことでしょう。
まだ雪の降る時期に目の覚めるような紅緋色(べにひいろ)で咲く椿。世界ではヴェルディのオペラ『椿姫』もとてもよく知られております。


田中章義(たなか あきよし)さん

歌人・作家。静岡市生まれ。大学在学中に「キャラメル」で第36回角川短歌賞を受賞。2001年、国連WAFUNIF親善大使に就任。國學院大學「和歌講座」講師、ふじのくに地球環境史ミュージアム客員教授も務める。『世界で1000年生きている言葉』(PHP文庫)の他、歌集『天地(あめつち)のたから』(角川学芸出版)、『野口英世の母シカ』(白水社)など著書多数。